数年間に、父は、脳梗塞を患った。
このことを気仙沼では「かがった」と言う。
「マルキのお父さんも、かがったんだっツおんね」(マルキのお父さんも脳梗塞になったんですってね)。
「俺もかがってしまッてッサッ」(←ビート感が出して読んでね)(私も脳梗塞になってしまって)。
「いやぁ〜〜、まさが、かがっと思わながったおん」(まさか脳梗塞になるとは思わなかったですよ)
幸い、病気は軽くきたので、命に別状はないし、半身が少し不自由になったものの、両手が使えるから、食事や読み書きに不自由することもない。
ただ、立ち上がると、平衡感覚が悪くなったために「ちょうどでナイ」んだ。
片足で立つことが難しくなり、バランスをくずすので、杖をついて歩く。
リハビリをきちんとこなすような「努力家」じゃないから、「ちょうどない」状態は続く。
それでも、母が「お父さんは、ちょうどでないのっサ」などと言おうものなら、たちまち、父はむくれる。
「ちょうどでない」というのは、「まともではない」という意味。
「俺はかがったんだがら、いだわれ〜(いたわって)」と病気を楯にする父。
「かがったッつッたッて、お父さんのは軽ぐ来たんだがら、大丈夫でガス」(病気といっても、お父さんのは軽いんだから、このくらは大丈夫)と強気の母。
毎日、毎日、よく飽きもせずに同じ会話をリピートしている。果てしない無限ループの世界。
そして母は、「お父さんが入院した時は、ホントにゆるぐながったでば」と、涙ぐむ。
さて、「ゆるぐない」とはどういう意味でしょうか?
(ちょっと簡単すぎたね)
まだね!