38. あたりまえ、とは... (1998.12.25)

英会話を習うことにした。
まだ一度しか行っていないのに、行く先々で、「英会話、英会話...」と言ってしまった。
どうも、こっそり勉強しよう、ってなことが出来ないらしい。

高校受験が近い頃、皆が「全然、勉強していない」と言うと、「私も!」と一緒になって、勉強しなかった。
中学3年の秋頃から、成績がどんどん下がる。
「おかしいなぁ〜、なぜ、下がるんだろう」不思議でしょうがない。

どうにか、高校に合格出来たが、入った後で、「オヤマ、お前、悪かったぞ」と、入試の順位を知らされ、愕然とした。
「相当、がんばらないと、授業についていけない」と、おどかされて高校生活が始まる。
しかしながら、最初の中間テストで、順位は、あっけなく挽回する。
担任が「だいぶ、努力したな」と言うが、実際には、努力してない。
そこで初めて、「ああ、みんなは受験勉強をしたんだな」と気づいた。

「勉強してない」という言葉を真に受けてはいけないと、友人に話したら「あたりまえじゃない」と言われてしまった。「勉強してない」というのは、学生にとって挨拶がわりだそうだ。高校生にもなって、そういうことではいけないらしい。
でも、私は、勉強したのに、「勉強してない」とは言えず、だからと言って「勉強している」とも言えなくなり、それに関しては、黙っていることにした。いわんや、テストが大嫌いになり、テストのたびに、じんましんに苦しむことになる。

どうも、「世間でいう、あたりまえの尺度」が、私のそれと異なることがある。

テレビ番組で「日本人のここが変」というのがある。
日本に住む外国人が、「変だなぁ〜」と思うことを日本語で話す。私も時々、外国人とともに、「そうそう。それは変だ!」と思う。
若い世代も、「外国人と同様に思っているのではないか」と、スタッフ連中に聞いてみたら、「そうは思わない」と言う。
逆に「オヤマさんって、そう思うんですか?」と返される。
「私って、(やっぱり)外国人?」ってな感じ。
祖先は、異国から船に乗って、気仙沼港にたどりついたにちがいない。
と、ちょっと本気で言ってみたが、誰も相手をしてくれない。

ま、この「あたりまえの尺度の違い」から、一人で会社設立ってなことが、出来ちゃったわけなんだけどね。