歌舞伎を「勉強してから見に行こう」と思っている人がいる。
そんな必要はない。
だって、歌舞伎は大衆娯楽だから、難しく考える必要はないんだ。
家電製品を買った時、まずは「取扱説明書」をキッチリと読んでから製品を手に取る人と、とりあえず使ってみてわからなかったら「取説」を読む人と、「取説」なんか見たこともね〜という人がいる。
歌舞伎を見るのも同様の事が言える。
今月の「おちくぼ物語(源氏物語)」は、シンデレラと同じような内容だ。
継子(ままこ)いじめは、時代も国も問わない。
光源氏には、若手人気No.1の市川新之助が演じる。
近ごろ、大きい役がつき、見るたびに成長している。
9月の新橋演舞場でも好演したが、その時にがんばりすぎて喉を痛めたようで、少し心配だ。
相手役「おちくぼの君」は中村福助。継母や姉達にいじめられる可憐な姫を演じる。
福助がもっと若い頃、可憐な姫は似合わないと思ったが、年をとるたびに似合ってきたな、などといらぬ事を思う。
歌舞伎は、たとえば80歳のおじいちゃんが、平気で16〜17歳のお姫様を演じる。
客もそのように想像して見るんだ。
「シワシワじゃない〜〜〜足腰も弱ってフラフラしてるしぃ〜」と野暮な事を言ってはいけないんだね。
娘らしいしぐさを演じている、その演技を見る。
「源氏物語」を古典の授業で習った時はチンプンカンプンだった。
「源氏物語」は色・恋の話なのに、エッチな部分は授業中では触れないから、どうも先生の歯切れが悪い。理解できないのは、私の知識不足と思い、参考書を読みあさってもわからない。
活字にすると、余計、難しいイメージになる。
歌舞伎も同様のことがある。
授業の一環として歌舞伎鑑賞をする場合、たいていは色・恋の特になまめかしい話を避けるようだ。
よって、色ものが出ないモノ、つまりは固い話になる。
文部省お墨付きの歌舞伎なんかを最初に見たら、「歌舞伎はつまらない」って事になっちゃうんだな。
歌舞伎は、先にも述べたように大衆娯楽で、色・恋あり、飲んだくれのダメ亭主あり、花魁(おいらん)に入れあげて全財産を失うバカ息子ありと、時代を越えて共感する題材が多い。
それに加えて盗人(ぬすっと)が出たり、だましあい、放火事件など、物騒な題材は時代を越えて教訓になる。
「おちくぼ物語」では、こんなやりとりがある。
「ほっそりとした人がいいか、それとも肉付きのよい人がいいか?」
「私は肉付きのよい女性がいい」
「それならば、うってつけである。三の君はむっちりとした美人」
---細部はよく覚えていないが、「むっちりとした」は、そのままだ。
これをセクハラと言ってはいけない。
殿方が集まった席では、このような話はあるに決まっている。
女性だって・・・実は、女同士が集まると、「どんな男性が好みか?」などと生々しい話をすることはある。
歌舞伎は、そんな日常的なやりとりを何百年に渡って、継承している。
それを見ると、ハイテク時代になり、飛行機であっという間に外国に行ける世の中になっても、人間としての本質は変わらないことに、あらためて気づく。
先に「勉強しなくてもよい」と書いたのは、知識で歌舞伎を見る必要はないということだ。
「言葉がわからない」という懸念する方には、イヤホンガイドを借りることを勧める。
イヤホンガイドは、歌舞伎ならではの約束事を邪魔にならぬように解説してくれるので、私も愛用している。
今月の福助は、夜の部の「相生獅子(あいおいじし)」がうまい。これは女形の獅子の舞。
たくましさよりも、なまめかしい獅子。
片岡孝太郎と舞ったが、福助の方が格が上であるように感じた。
獅子の毛を振る時も、孝太郎も何倍も振り回して、客席から拍手喝采をあびる。
さすが、人間国宝「中村芝翫(しかん)」の息子だと、感心する。芝翫は踊りがうまい。
仁左衛門と玉三郎の「吉田屋」は2人の当たり役。
大坂新町の吉田屋(遊郭)を舞台に、大晦日に豪商・藤屋を勘当されておちぶれた若旦那(仁左衛門)が、ひとめ夕霧(玉三郎)に会いたくて、吉田屋を訪れる。
男女の仲に理屈はいらない。会いたい気持ちと、他の客に嫉妬する若旦那を仁左衛門がたくみに、おかしく演じる。
花魁・夕霧(玉三郎)が登場すると、歌舞伎座の空気が止まった。
そして次の瞬間、「きれい〜〜〜」と声にならない声が、ため息と一緒に漏れた。
玉三郎も50歳になったはずだが、いまだにゾクゾクっとする色気がある。
世の50歳のオヤジ達は、くたびれた表情をしているが、この人はいつまでも娘のように美しい。
舞台中央で止まり、後ろを振り返って両腕をあげ、豪華な衣装を見せてチラリを振り返った時、あまりの美しさにどよめきが起きた。
これだから2人の「吉田屋」はやめられない。ぜひ一度、見て欲しい演目である。
夜の部の目玉は、玉三郎演じる「先代萩(せんだいはぎ)の政岡」だ。
この役は、超・一級の女形として認められた者のみが演じる。
平成7年10月に演じて以来、6年ぶり2度目になる。
今回の方が役がこなれている。故・人間国宝「中村歌右衛門」の直伝による「政岡」は、米をとぐのに、茶道の心得をしてみせる。
茶道の手法で米がとげるか? なんて野暮なことを言ってはいけない。
つまり、そういうしぐさが格式高いことを示しているわけ。
「先代萩」は、政岡の息子/千松が、若君/鶴千代のかわりに毒入りの饅頭を、横からやってきてパクリと食べる。毒入りを悟られないうちに、陰謀者に斬り殺されるという可哀想な筋だ。
もちろん千松は、それが毒入りであることを承知している。だから若君の代わりに食べるわけ。
玉三郎演じる政岡は、死んでしまった我が子を抱き、「でかしゃった、でかしゃった」という有名なせりふがいい。
若君を守ることを聞かされて育った千松が、その役割をキッチリと達成したことを誉める。
泣きながら誉める(ウルウル)。
歌舞伎ファンなら、そのせりふは百も承知なのに、その場になると、目頭をそっとハンカチで押さえるご婦人は多い。
「何度見ても、あの場面は可哀想で」と江戸時代も今も変わらない。
子役がまたいいんだね。キッチリと役をこなすから、悲しみも増すわけ。
ね・大丈夫でしょ?
歌舞伎は、いまで言うなら、連続ドラマのようなもの。
大衆のお楽しみに勉強なんかいらないんだ。
でも、もっともっと深くかかわりたくなったら、「演劇界」などの雑誌を見てみるとよい。
歌舞伎は伝統として息づいているから、時代背景などの知識を入れると、さらに楽しくなるだろう。
でも私は、予備知識なしに、理屈抜きで楽しむことにしている。